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ツイッター疲れでやめたい人々

2010/08/19 2 Comments

写真とは全く関係ないですが、「ツイッター疲れ」でやめたい人々というのがいるらしいと、何日か前の記事で読みました。
いやまあ、僕は、twitterは気楽にやればいいんじゃん?って思うのですが、こういう反応って、twitterでもやっぱりあるんだなあ、と思ったわけです。

「オレのつぶやきに誰も反応してくれない」 「ツイッター疲れ」でやめたい人々

僕が初めてインターネットを使ったのが、1996年。
まだインターネットは黎明期で、パソコン通信の方が主流でした。
僕も両方を併用してました。
草の根ネットでクローズドなコミュニティがいくつも形成されていて、まあ僕がそこに深入りする前にインターネットへの移行がスゴイ勢いで進んでいったわけですが、あの頃からこの問題は変わらずずっと存在している気がします。
手段はホームページからブログに代わり、SNSが生まれて、twitterが生まれ…しかし、人が人とのつながりを求め、コミュニティを形成するというシステムはなんら変わってません。
手法がリンクからコメントやトラックバックに代わり、フォローになっただけです。

僕自身、twitterでのコミュニケーションを楽しんでいますし、SNSでの出会いなんかもすごくいいなあ、と思うし、そういう手段で人とのつながりが増えていくのはネットというものの強みだと思うのです。
そういうの、有効活用しないともったいないじゃん、と僕なんかは思うのです。
しかし今、facebookやmixiのようなSNSに依存する人たちってのは必ずいて、国内、海外問わず問題になるケースもあったりします。
ネットでのコミュニケーションが犯罪にまでエスカレートする危険性を含むというのが、現状を見る限り事実なんでしょう。

そういう事件を目にする度に思うこと。

「今という時代、みんなそんなにコミュニケーションに飢えてるんだろうか?」

もうちょっと言い方を変えると、

通信技術が発展した現代。
地球の反対側とリアルタイムにコミュニケーションが取れ、ネットを通じて一個人が万単位の人間と知りあえる現代。

「人間関係は豊かになったんだろうか、それとも貧しくなったんだろうか?」

ここ数年、子供が親を殺すという事件が当たり前のように起こるようになってきました。
そして今年になって、ネグレクトや児童虐待が毎日のように新聞をにぎわしています。
統計をとったわけではないので、実態はよく分からないですが、僕の印象では

猟奇殺人の90年代 → 親殺しの2000年代 → 子殺しの2010年

という印象です。
実態ではなく、あくまでも報道に上がってきている事件をざっと眺めての印象に過ぎませんが。

今、いくらでも人と知り合えるのに、交流を深める手段はいっぱいあって、いくらでもコミュニケーションをとることができるのに、なんでこんなことが起こるんだろう?
人間関係が豊かなら、なぜ簡単に人を傷つけられるんだろう?
この疑問が、ここ数年、僕の中から消えません。

ネットでのコミュニケーションは、リアルのコミュニケーションとは違う。

そういってしまえば簡単でしょう。
しかし、ネットでのコミュニケーションはこれから、これまで以上の勢いで増えていくはずです。
もはや現代人が切り離すことの出来ないシステムです。
これが人と人とのつながりをより深めるものでなければ、なんというかつまり、ジリ貧としか言い様がないわけです。

これまたネットの記事ですが、今、1週間分の新聞に掲載される情報量は、昔の人の一生分の情報量より多いとか。
同様に、きっと今の人がネットを通じて知りあう人間の数は、昔の人の一生分より多いのでしょう。

「たとえ人がこの世の果てまでたどり着き、この世を支配したとしても、人と人とが見つめあい、抱きあえる距離は変わりはしないだろう」

以前、僕はそんなセリフを書きました。
あの時、僕はリアルな人間関係に勝るものはないと思っていました。
でもそれだけじゃすまないなあ、と思う今、書くべきセリフがまだ見つかりません。

「オレのつぶやきに誰も反応してくれない」

冒頭の記事にあったこの言葉は、今の時代を象徴している気がしてなりません。

孤独の時代。

それを乗り越えることのできる強い「想い」を探したいとずっと思っています。

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2 Comments »

  • 新&綾音ママ said:

     私は以前から、コミュニケーションに飢えているのではなく”自分の居場所”を探しているのではないかと思っています。
     ”自分という人間が存在していることを認めてもらえる場所”が”自分の居場所”と認識しています。学校でも会社でも家庭でもネットでも。
     どこかに自分を認めてくれるヒトがいれば安心なのであって、認めてくれる人がいないことによる孤独感と戦っているのではないでしょうか。
     ヒトを殺めるという行為も
    ”自分はここにいるよ”
    というココロの叫びに他ならないかもとも思います。根底にあるのは自己の存在の主張で、殺める対象が時代とともに変化している。
     感覚として常に感じていることなので言葉にするとうまく伝わらないのですが・・・たとえ仮想の世界でも自分を理解し愛してくれるヒトが存在すれば一つの”自分の居場所”として成立する気がします。

  • 渡辺 和徳 said:

    「自分の居場所」を探す…まったくその通りだと思います。

    この「自分の居場所」というもののこともよく考えるのですが、これも非常に難しい問題です。
    「居場所を見つける」という作業は、一つには「自分の存在を再確認する」作業であるとも考えられます。それはつまり自分のアイデンティティを確認することでもあるでしょう。
    また、居場所を見つけるという作業は、他者との関わりなしにはありえません。
    そこにはやはり、コミュニケーションが存在します。

    コミュニケーションの手段が増えたことによって、居場所を探す手段も増えたはずです。
    移動も通信もままならない時代に比べれば、比べ物にならない人と出会えるわけで、人によっては大事な居場所を、2つも3つも見つけられることでしょう。
    そのためにネットは実に有用な手段なはずです。
    今や、恋人同士も直接会うより、メールのほうが多くコミュニケーションをとっている時代ですから。

    しかし居場所を作りやすくなったと同時に、壊れやすくもなっているのかもしれません。
    居場所を求めるあまりに、ちょっとしたコミュニケーションにすがってしまうのかもしれません。
    あるいは、いろんなところに探しにいけるようになったために、目の前の人との間で居場所を構築しようという努力を、簡単にやめてしまっているのかもしれません。

    たくさんの居場所を見つけられる可能性に満ちた今の時代が、本当の意味で豊かな時代であることを望むばかりです。

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