演出の心構え

演出は、3つのパートにわかれる。

ここまで、演出する上で実際に行う過程を順番に見てきました。
すべては、観客に伝えるため、であることを理解していただけたでしょうか?

ではここまで述べてきたことを、3つのパートに分けてみたいと思います。

1つ目は、脚本理解です。
2つ目は、観客の成立(=観客の意識をコントロールし、脚本の内容を観客に正しく伝えること)です。
3つ目は、そのために俳優の演技を成立させることです。

この中で、演出者の創造性が最も発揮される部分はどこでしょうか?
それは言うまでもなく、脚本理解です。脚本をどう読み解き、それをどう具現化するか、そのプランニングをすることは、演出者にとって最も創造力が必要とされる部分です。残りの二つは、それを他者とすりあわせる作業に過ぎません。あなたのことを良く理解してくれている俳優やスタッフなら、きっと易々とやり遂げてくれるでしょう。
ですから、脚本理解が出来れば、演出者の仕事の8割は終わったも同然である、と言ったのです。

もちろん、最も時間のかかる部分は、残りの二つでしょう。特に初めての俳優とやる時は、意思の疎通を図るだけでも大変かもしれません。しかしすべては脚本理解あってこそ、ということを忘れてはなりません。

演出の仕事は俳優にダメだしをすること、と思っている人は、ここで大きな過ちを犯します。

演劇は演出が作るのか?

演出については、昔から相反する二つの考え方があります。
一つは演劇を創造するのは演出家である、という考え方で、もう一つは演劇を創造するのは俳優である、という考え方です。

まず、僕がどちらの考え方をしているかと言うと、後者寄りのミックスです。
もし完全に俳優のみが創造者であるならば、前述の演出家による脚本理解などは必要なくなります。演出家はただの連絡係か、俳優の交通整理をしていれば良いということになります。ですがそれで、きちんとパッケージ化された統一感のある表現が可能でしょうか?

しかし、俳優の持つ創造性を利用しないのも、おかしな話です。
俳優もスタッフも、個々に作品に対する創造性をいかんなく発揮し、その相乗効果によって作品の質を高めることができれば、それは素晴らしいことです。演出者はそれを邪魔することなく、かつ自らの創造力によって、俳優たちが生み出してきたものを秩序ある形に整理整頓してパッケージ化する。それがベストな形ではないかと思っています。

ですから、俳優は役の内面にフォーカスし、演出者はそれが観客に与える影響にフォーカスする、というスタイルが、適材適所であろうと思うのです。

しかし残念ながら、演出家こそが創造者で、俳優はそのコマに過ぎないという考え方に囚われている人は、山ほどいます。
もしその演出家が超人的な才能を持っているならば、それも可能でしょう。10人の俳優がいるならば、その10人が生み出す10の10乗の相乗効果よりも、演出家一人の創造力が上回っていれば、その方がいいに決まっています。

ですが、ほとんどの演出家を名乗る人は、凡人です。
自分の能力を過信しないならば、俳優の持つ創造力を否定するべきではありません。

作品への奉仕者たれ

最後に、演出に当たる際の心構えを述べておきたいと思います。
それは、作品への奉仕者であれ、ということです。

演出を行うには、入念な準備が必要です。それは決して楽な作業ではないはずです。ですがそうして生まれた演出プランに、こだわってはいけません。それは俳優の創造性を否定することになるからです。実際の稽古の段階でも、その場で生まれたものにあわせて、どんどんプランを変えていかなくてはなりません。だからといって、もちろん、「だったら下準備はいらないんじゃないか」ということではありませんが。

ここで白状するならば、脚本理解が出来れば、演出者の仕事の8割は終わったも同然であるというのは、本当でもあり、ウソでもあります。脚本理解の重要性を強調しておくべきだと思ったから、あのような書き方をしたに過ぎません。残念なことに、脚本理解がきちんとできても、様々な理由でプラン通りにいかないことは多々あります。稽古の段階で創造力を発揮しなければならない場面もたくさんあるのです。

ですから、どんなに苦労して考えたプランも、もっと良いアイデアが出たなら、ためらうことなく捨てましょう。努力を惜しんだり、メンツにこだわったりしてはいけません。でも、俳優の意見に合わせてばかりでは、全体をパッケージすることができません。きちんと自分の意志を持ちましょう。

入念に準備し、しかし状況に合わせて柔軟に対応し、それでいて意思決定は明確に。
演出者は、すべてのプライドを捨てて他のだれよりも作品に奉仕しなくてはなりません。

すべては良い作品のために、です。

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