3-1. 「だれ」が「どうなる」 – 人間を書くということ

プロットが出来上がったら、実際の執筆に入ります。もちろん、アイデア出しの段階で、すでに書いてあるシーンもあるかもしれません。しかし、プロットがまとまってからが本格的な執筆です。

プロットがきちんとできていれば「書く内容」に迷うことはほとんどないはずです。プロットの中に「このシーンではこれとこれを書けばいい」と書かれているのだから、それを“最短距離”で書くことです。もし書くことに迷うなら、それはプロットがずれてしまっているのです。目の前のセリフや描写に集中するよりも、プロットに戻って一歩引いた視点で、何を書けばいいのかを確認し直しましょう。

それでも、執筆の際に気をつけなければいけないことがあります。

執筆の際に気をつけること

◇最小限の描写で書く

先ほども“最短距離”という言葉を使いました。書くことと、そこで伝えなければならないことが分かっているのですから、他に無駄なことを書く必要はありません。必要なことを、必要な分量だけ書きましょう。

ここで言う最短距離とは、短ければ短いだけいい、ということではありません。重要なことは「伝えるのに必要なだけ」書くということです。これについては、後述の「観客のスピード感」についても参照してください。

◇行動を書く

物語というものは、人間を書くものであって、出来事を書くものではない、ということは前にもお話ししました。ですから執筆に当たっては、必ず人物の内面を意識しながら書いてください。
今描いているキャラクターの状態はどうなっていて、周りにいる人間との関係性はどうで、何に葛藤していて、何を選択し、どう行動するのか。出来事を書こうとすると、必ずキャラクターが崩壊します。

くり返します。必ず、です。

◇一つの行動が、次の行動を導く

あるキャラクターの行動は、必ずそれを受けた人間の行動を促します。他のキャラクターに影響を与えない行動など存在しません。物語の中で起こることは、全て連鎖していて無駄なものなどない、ということを忘れないでください。

「だれ」が「どうなる」 – 人間を書くということ

これまでもいろんなところでお話ししてきましたが、物語というものは人間を書くものであって、出来事を書くものではありません。なぜこれほどまでくり返すかというと、それだけ強く意識してほしい点だからです。

(あらかじめ…。ここで僕が言う「出来事」や「行動」という言葉は、僕個人の定義に基づいているので、違う使い方をされる方もいると思います。この講座内での用語、として捉えてください)

書き慣れていない人は、必ずそのシーンで起こる「出来事」を先に考えて、「出来事」に合わせてキャラクターを動かします。その結果起こることは、「何を起こせばいいのか分からない」という状態です。キャラクターが常に「出来事」に振り回されて主体的に行動していないので、ネタ切れになってしまうのです。何より、操り人形のように都合よく行動してきたキャラクターの内面は、完全に破綻してしまっているでしょう。

「出来事」を先に考えて「こういう出来事が起こったから、このキャラはこう感じて、こう行動するはずだ」というのは、一番危険な考え方です。

 出来事が起こったから、行動するのではないのです。
 ある人物がある意思のもとに行動したから、ある出来事が起こるのです。

そしてそれが別の人間に選択肢を突きつけ、葛藤させ、その人間が選択・行動した結果、また別の出来事が起こるのです。これは物語の最後まで連鎖していきます。

「出来事」と「行動」の違い

「え、だって行動だって出来事の一つでしょ?」と思われるかもしれません。その通りです。この違いは本当にあいまいなもので、説明するのにいつも苦労します。

もう少し細かい言い方をすると、ここで言う「出来事」とは無機質な事象のことで「行動」とは人間そのものです。どうしても盗みをせざるを得ない少年の心情を描こうとしているのか、ここで「盗み」をして「ボコボコにされ」ちゃおう、と、起こる事象ばかりを考えているのか、の違い、と言えば良いでしょうか。

人に何かを感じさせ、行動を促すのは「別の人間の行動」であり、またあるいはその人物が自分に向けてくる「感情や思い」です。人間の内面にフォーカスしながら書いていれば、出来事に執着することは起こらないはずです。

人間の意思に基づかない「出来事」

単なる事象として描かれた「出来事」の怖い点を、もう一つお話しておきます。それは、観客(=読み手)は起こった出来事そのものではなく、それがなぜ起こったのか、にしか興味を持たない、ということです。感情移入できない、といってもいいかもしれません。

例を挙げてみます。物語の途中で、何かすごいショッキングな出来事が欲しくて「町が一つ、爆弾で消し飛んだ」という“出来事”を起こしたとします。でもこの町が、主人公たちと何の関係もない町で、それを起こした人間もまったく知らない人間だったとしたらどうでしょう。それがどんなに悲惨な情景でも、観客は「ふーん」としか思わないでしょう。ここに、いくつか要素を足してみます。

  • +これが主人公の生まれ育った町
    これは少し感情移入ができます。主人公の故郷に対する思いが強ければ強いほど、その感情移入度は高まります。
  • ++これが主人公に恨みを持つものの仕業
    主人公に対する同情と同時に、それを起こした人間に対する「そこまでするか!」という怒りなり反発が生まれてくるでしょう。
  • +++その恨みもつ人間が、かつての主人公の親友であり、同じその町で生まれ育った人間だった
    主人公の絶望も、親友に対する怒りや失望、衝撃の度合いもずいぶんと大きくなるはずです。

ここで重要なのは、この時感じる「ひどい!」という思いの方向が、今や「町が消し飛んだ」という事象に対してではなく、それを起こした親友の方に向いているということです。それを起こさざるを得なかった、彼の内面の方に関心が向いている、ということです。そして主人公の怒りや絶望も「町が消し飛んだ」という事象だけなく「あいつが町を破壊した」という親友の行動に向けられているということです。

観客は、出来事よりもそれを起こした人間の内面の方に強く魅かれます。「出来事」ではなく「行動」を書かなくてはならない、というのは、このためです。

キャラクターがいなくても、意思はある

ここまでお話してきたように、だれの意思にも基づかない出来事は、非常に軽薄なものとして観客に受け取られます。いわゆる「ご都合主義」というやつです。先ほどは分かりやすくするために、明確に意志を持つ人間を登場させましたが、意思持つ人間が出てこない、ということもあり得ます。

別の例をあげましょう。
主人公たちの家が火事で焼け落ち、途方にくれることになったとします。もしこれが、だれのなんの意思もなく、作家が「なんか主人公を困らせたいから家を火事にしてしまおう」というご都合で起こした出来事なら、観客はしらけてしまうでしょう。
しかしそこに明らかに放火の後があり、主人公たちがいつの間にか町中から、無数の敵意を向けられていることに気づいたならどうでしょう。たとえその放火犯が明かされることがなくても(=登場しなくても)、観客はその後、主人公が街にいるだけで、敵意を常に感じることになるでしょう。

つまり、登場しなくても意思は存在する、ということです。

シーンは人の変化のためにある

ここまでお話したことをまとめておきます。

  • 観客は起こった「事象」よりも、それを起こした人間の「意思」に関心を持つ
  • だから出来事(=事象)ではなく、行動(=人間の意思)を描かなくてはならない
  • キャラクターの変化は、出来事によってではなく、人の意思によって起こされる

つまり、物語の中のひとつのシーンというのは、出来事を起こすためにあるのではなく、人の変化のためにあるのです。変化のないシーンは、不要なシーンです。

たとえなんの出来事も起こらないシーンであっても、それがある人物の心の平穏のためにあるならば、それは「心を平穏にする」という変化のためのシーンです。しかしどれほどの会話をし、どんな事件が起ころうとも、人物に変化が起こらなければ、それは「何も起こっていないシーン(=不要なシーン)」です。

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